http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20120309/CK2012030902000085.htmlより、
【栃木】復興へ歩む 震災から1年<1> 仮設住宅
東京新聞 2012年3月9日
(写真)「今年は元気に生活再建」と語り、笑顔で妻の髪をとかす曽根原さん=那須烏山市で
◆代表者 曽根原 勉さん(63)
荒川沿いの平地に立ち並ぶ、五棟のプレハブ住宅。川からわたって来る風が、凍りつくような寒さをまとって吹き込んでくる。
昨年五月、県内で唯一の仮設住宅が設置された那須烏山市岩子地区。九日、開所から丸十カ月を迎える。
「少しずつだけど、生活再建は進んでいる」
重度の障害があり、車いす生活を送る妻くみ子さん(62)を見つめながら、優しくほほ笑む。不自由な仮設住宅暮らしでも笑みを絶やさない。
新潟県生まれ。二十年前、勤め先の大手電子部品メーカーの宇都宮営業所に転勤し、「妻を温泉に入れてあげたい」と那須烏山市の温泉近くに居を構えた。
一年前のあの日、同市は震度6弱を記録。市内の外出先から自宅に引き返し、息をのんだ。一階の壁は突き破られ、反対側の景色がむき出しに。「自分の家が壊れているなんて、思いもしなかった」
市内の福祉施設にいて、難を逃れたくみ子さんの無事を確認。めちゃくちゃになった家の中で、必死にくみ子さんの薬を探した。
自宅の片付けに追われた後、市役所から「仮設住宅に入居しないか。出入り口には、車いす用のスロープも付ける」と電話が入った。受話器越しの声が、心に染みた。
仮設住宅への入居とともに、二十世帯六十七人の代表者に。市役所などと交渉する窓口役になった。
入居者は全員、那須烏山市民。しかし、「寄り合い所帯」をまとめるのは容易でなかった。
「ほかの人より自宅の被害がひどいので、片付けにいく」「会社に行かないといけない」などと主張し合う入居者たち。ごみ当番さえ決まらない。それでも「不幸を順位付けしないで、一緒にやっていこう」と訴え続けた。
思いは通じる。昨年八月に夏祭り、十二月に感謝の集いを開くと、多くの人が集まり、笑い声があふれた。今はもうばらばらではない。
仮設住宅では、震災から一年たった今も十七世帯五十三人が暮らしている。自らも自宅再建のめどは立たない。仮設住宅の設置期間は原則二年だが、役割を終える見通しは立っていない。
しかし、今年の年賀状にこう書いた。「命があれば、これで十分です」
強く思うのは「壊れてしまった家で暮らした二十年より、これから過ごす十年の方が大事」。妻と寄り添い、未来を築く覚悟があるから、笑顔でいられる。
◇明日への言葉
壊れてしまった家で暮らした20年より
これから過ごす10年が大事
◇ ◇
東日本大震災の発生から、十一日で一年を迎える。震災では、県内も死者四人を出すなど大きな被害を受けた。県内の被災者、県外からの避難者、そして支援者。それぞれの立場から復興を目指す人たちの「今」を追った。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20120310/CK2012031002000065.htmlより、
【栃木】復興へ歩む 震災から1年<2> 支援グループ
2012年3月10日
◆チーム日光代表 小坂 憲正さん(43)
(写真)集会所の模型を前に、笑顔で活動について語る小坂さん=日光市で
「家だって本来は買うのではなく、自分の手で造るものですよ」
昨年十月、支援に向かった宮城県南三陸町歌津(うたつ)地区で、町づくり団体の代表者にそう語り掛けたことが、すべての始まりだった。
東日本大震災後、被災地を支援しようと、地元・日光市の住民らと「チーム日光」を結成。友人の実家がある宮城県石巻市で、炊き出しや家屋の泥出し、救援物資の提供を続けていた。「歌津には家もなく、人もいない」と聞き、訪れてみると、津波による壊滅的被害で、言葉通りの惨状が広がっていた。
歌津地区で復興に取り組む地元団体の代表者に会った。「人が集まって話し合う場所がないと、町づくりはできない」と意見が一致したが、南三陸町に集会所を造る財政的余裕はない。「だったら、自分たちで造る」
自身は木造建築を手掛けてきたログビルダー。扉作家としても、独創性豊かな作品を世に送り出してきた。「新たな町づくりには創造性が重要。プレハブの集会所で考えても、創造性は低くなってしまう」
ゼロからの町づくり。原点回帰の意味を込め、縄文時代の竪穴住居を再現した建築様式に決めた。
用地は、高台にある仮設住宅の敷地に内定した。ただ、手づくりといっても建材費などは必要。それでも「やると言ったらやるのが俺たちのチーム」。
揺るがない決意を、意気に感じた支援の輪が広がった。
林業が盛んな三重県尾鷲市の企業が、ブログでチーム日光の活動を知り、ヒノキを提供。日光市の作業場まで無償で届けてくれた。丸太の皮をむく手作業は、チームのメンバーだけでなく観光客も手伝った。同市内の木材会社は屋根材を提供してくれた。
資材は整った。次は、どう現地へ運ぶか。市内の別の木材会社の社長に相談すると「三重からただで持ってきてくれたのに、こっちだって金は取れない」。自ら大型トラックを運転してくれた。
昨年十二月から組み立てを開始。初めは、のみさえ満足に使えなかったチームのメンバーは、日ごとに頼もしい“大工”になり、約八十五平方メートルの竪穴式集会所が姿を現し始めた。
鍵穴形の形状と、地区のキーポイントになってほしいという願いから「歌津迎賓館『鍵』」と命名。五月二十三日のオープンを目指し、来月からいよいよ仕上げに入る。
多くの人の善意がなければできなかった活動。「人と人との縁が『奇跡』を起こした。大変な時でも、いいものをつくろうとすると、人は一つになれる」
◇明日への言葉
いいものをつくろうとすると
人は一つになれる
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20120311/CK2012031102000063.htmlより、
【栃木】復興へ歩む 震災から1年<3> 避難所
2012年3月11日
(写真)「自分も年を取ったら、そうなるかもしれない」。寝たきりの高齢者らを受け入れた経緯を語るホーシェンさん=日光市で
◆バングラデシュ人経営者 アクタール・ホーシェンさん(45)
東日本大震災から九日後の昨年三月二十日。福島ナンバーの救急車やタクシーが次々に乗り付け、医師や看護師に付き添われたお年寄りたちが、大部屋に吸い込まれていった。中禅寺湖を望む奥日光のホテル「アジアンガーデン」(日光市)。この日から八カ月間、介護が必要な「災害弱者」が身を寄せる避難所となった。
「福島県南相馬市の病院が閉鎖した。患者を受け入れてもらえないか」。きっかけは、福島県庁からの一本の電話だった。
かつてカレー店を出した福島の友人を介し、東京電力福島第一原発事故で家を追われた福島県飯舘村の住民を受け入れる話に応じた。それを同県庁に電話で伝えると、一時間後に返事があった。飯舘村の人たちは鹿沼市に避難させる。代わりに、南相馬市の病院や老人ホームにいた八十人を頼むという依頼だった。
快諾し、その時点で入っていた宿泊予約をすべて取り消した。
送られてきたリストを見て、目についたのが年齢。ほとんどが八十〜九十代で寝たきりの人たちだった。症状の重い十人は病院に移り、残る七十人の共同生活を支え続けた。
病院でもないホテルでの世話。ボランティアの医師から「死亡者が出ても責任を取れるのか」と、声を荒らげて詰め寄られることもあった。
しかし、震災翌日に、被災地に車を走らせて目にした光景が頭から離れなかった。「若くて元気な人なら歩けるが、水も電気もない所で寝たきりの人を放っていたら死ぬ。被災した現地を見たら、責任を争っている場合じゃなかった」
当初、外国人が経営するホテルでの暮らしに不安を抱く避難者もいた。やり場のない怒りからいらだち、けんかになる人も。しかし、黙って聞いた。「大変だったね」とは一度も言わなかった。
二週間もすると、口を開く人が増えた。「冗談を言って笑っていたら、みんな変わった」
「亡くなってもおかしくない」と危惧した九十九歳の女性も、昨年八月末に福島へ戻る時には、自力で車いすに乗れるほど元気に。昨年末に最後の家族を見送り、ホテルに日常が戻った。
「世界の中でも発展した日本」に憧れ、二十五年以上前に来日。会社勤めを経て、首都圏各地で料理店やホテルを持つ経営者になった。遠い母国は、毎年のように洪水に見舞われる。「真っ先に支援の手を挙げるのはいつも日本だった」
しかし、今回の行動は「恩返しということではない」。日本人の優しさに触れて、ここまでこれたという思いが強い。ホテルの収入がゼロになることなど「考えている場合じゃなかった。頭で考えていたら何もできない」。
奥日光の雪解けが待ち遠しい。「春よ来い、早く来い」。流ちょうな日本語で口ずさんだ。
◇明日への言葉
頭で考えていたら何もできない
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20120313/CK2012031302000066.htmlより、
【栃木】復興へ歩む 震災から1年<4> 被災者
2012年3月13日
◆福島県から避難した主婦 高原 沙織さん(29)
初節句を祝うつるしびなが飾られた、足利市内のアパート。今月五日で七カ月になった長女七未(ななみ)ちゃんを抱き、いとおしそうに眺める。
福島県楢葉町の家を離れて一年。会社員の夫(37)、長男の蒼(あおい)ちゃん(4つ)、義父母、義弟との七人で身を寄せ合って暮らす。楢葉町は大半が、東京電力福島第一原発から二十キロ圏内の警戒区域に含まれ、「あの日」から一度も戻っていない。
昨年三月十一日。事務員として勤める福島県大熊町の病院で事務用品を検品していたら、床が激しく揺れた。患者たちが外へ飛び出していく中、自分も制服のまま、病院から五分の距離にある同町内の実家に行った。
しかし、同原発に原子力緊急事態宣言が出され、政府が周辺住民に避難を指示。
おなかには新たな命が宿っていた。当時、妊娠五カ月。前置胎盤と診断され、医師から安静にするように言われていた。「ちゃんと産めるのか。この先どこに行くんだろう」。不安ばかり膨らむ中、長い避難生活が始まった。
実家の両親や妹家族とともに身を寄せたのは大熊町内の体育館。冷たい床に横になると、おなかにかすかな反応があった。「動いてる」。避難所で感じた、初めての胎動だった。
両親らと同県田村市の体育館に移ると、別の場所に避難していた夫や蒼ちゃんが迎えに来た。義父母らも含む十数人で、親戚の家がある群馬県館林市へ。隣接した足利市で避難所を開設するという話を聞き、三月十六日、栃木県に移った。
避難所のセミナーハウスは調理室があり、風呂にも入れた。でも、足利市内の病院に初めて検診に行った時、心細さにぼろぼろ泣いた。待合室のテレビでは、原発事故のニュースが流れていた。
両親らは、福島県会津若松市へ移住。自分たちの家族は足利市内の市営住宅に入居したが、半年間の期限があり、七月に今のアパートに移り住んだ。
不安は尽きなかったが、おなかの子が動くたびに「生きてるんだな」と感じることができた。前置胎盤も自然に治り、八月五日に七未ちゃんを出産。痛みに耐えながら、故郷を思い出し涙が出た。
「楢葉の家は、どんなお風呂だった?」「おもちゃを楢葉に忘れてきちゃった」。幼稚園に通う蒼ちゃんが、毎日聞いてくる。「地震で家が壊れて、大工さんが直している」と伝えているが、小さな子なりに記憶が薄れないようにしている姿を見ると、つらくなる。
「楢葉町の家に帰りたいけど、不安を抱えながら子どもは育てられない。福島に戻るなら、年を取ったときに私たちだけで」
手がかからず、すくすくと育つ七未ちゃんは、栃木しか知らない。未来は、わが子に付けた名前のようになってほしいと願っている。「七色の明るい未来が広がるように」
◇明日への言葉
福島に戻るなら、年を取ったときに私たちだけで
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20120314/CK2012031402000075.htmlより、
【栃木】復興へ歩む 震災から1年<5> ボランティア
2012年3月14日
(写真)現在は17日に開催する「お茶会」へ向け準備を進める田中さん=宇都宮市で
◆古里思い避難者ケア 宇都宮大2年 田中 えりさん(20)
やり切れない気持ちに、一筋の光が差した。
昨年七月、宇都宮大の学生ボランティア「福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト」の報告会に参加。東日本大震災で福島県から避難してきた人たちをケアする活動の様子を知り、自分も支援の輪に加わることを決意した。
「それまで周りに目を向けられなかったけど、少し落ち着いて『何かしたい』と思った」
福島県浪江町生まれ。宇大国際学部に入学して一年が過ぎようとするころ「3・11」が起き、宇都宮市内のアパートも被災した。大揺れの中、室内にあった大きな鏡を押さえ続け、現実を受け入れられないまま、先輩の自宅へ避難した。
福島第一原発に近い古里も一変。テレビで、地震と原発事故による未曽有の被害を知る。実家とは幸い連絡が取れ、家族七人を宇都宮市に呼び寄せた。八畳のアパートで、川の字になって寝た。
その後、家族は帰郷したり、新たな家に移るなどして「次の一歩」を踏み出した。だが、自分は何をしたらいいのか、気持ちの整理がつかない。
ボランティア活動は、決して遠い存在ではなかった。一昨年、フィリピンでストリートチルドレンの家を造る活動に参加した経験がある。しかし、家族と古里を巻き込んだ震災と向き合う活動には、覚悟が必要だった。
参加した報告会は、そんなためらいを吹き飛ばしてくれた。
自分の担当は、福島県から県内に避難してきた同じ境遇の人たちが、気軽に話ができるように「お茶会」を主催すること。互いに交流を深めることで、少しでも過ごしやすいと感じてほしかった。
お茶会には、若い夫婦らが集まり、子育ての悩みなどを話し合った。「親近感がわき、たわいのない話で笑顔になれる。それだけで、よかったと思う」
活動の中で、避難者から「浪江の人に会えてよかった」と声を掛けられた。心が躍った。自分が、今回の活動に取り組む意味を見いだした気がした。
一方、被災者としての思いも募る。浪江町は原発事故で計画的避難区域などに指定され、住むことができない。「今も実感がわかない。自分の古里に、誰もいないと思うと恐ろしい」
それでも、今は、こう思える。「私には被災者と支援者という二つの顔がある。だからこそ、自分にしかできないことがある」。自分も被災者の一人だから、避難してきた人たちの気持ちが分かる。人を元気にしたいと心から願い、励ますことができるに違いない。
ボランティアとは何かと問われても「答えなんてあるのか」と感じる。だが、進む。人と寄り添える自分であるために、歩み続ける。
◇明日への言葉
私には被災者と支援者という 二つの顔がある
だからこそ、自分にしか できないことがある
=おわり